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 早速フイッシャー博士の手で、医療スタッフが編成された。そして健介の精子が採取され、一時凍結保存された。同時に、涼子の準備も開始され、卵子の採取が行われた。しかし、もう三個しか取れない。これが最後のチャンス。後はもうない。そこでスタッフはより妊娠の確率が高い“顕微授精”を行うことにした。これは顕微鏡下で、人工的に卵子の細胞質内に精子を注入する方法である。
 受精卵が涼子の体内に戻された。しかし、一回目は失敗。そして、二回目も――。
(ああ、もうだめだわ。神様、おねがい!)
涼子は合掌し、必死に祈った。このときは、涼子ばかりでなく、麗華も恵子も、そして吉川も――。いや、当の健介も祈っていたかもしれない。勿論フイッシャー博士も、そしてスタッフも、とにかく全員が祈った。
 そして、最後の受精卵。これがダメなら、もう永久に妊娠することはできない。医師からは、「もうすこしリラックスして」との指示を受けた。そこでしばらくは病院から離れて、各地を見学して歩いた。
サンフランシスコの街に出て、ケーブルカーに乗ったり、港に行って湾内を一周するクルーズも楽しんだり。翌日はロスへ飛んで、本場のデイズニーランドを見学。更にユニバーサルスタジオに行って、撮影セットも見学した。思いがけない行楽に、身も心も完全にリフレッシュ。ロスから帰って、休む間もなく、今度はヨセミテ公園にドライブ。巨大な岩に圧倒され、自然の織り成す驚異に感激の連続。さらに翌日は、ベースボールスタジアムに行って、野球観戦。日本人選手の活躍を目の当たりにして感動で身が震えた。こうして、一週間もの間、まったく病院から離れて、アメリカンライフを楽しんだ。そして、最後のチャンスに挑んだ。
 受精卵を子宮に戻されて、しばらく安静。あとは神に祈るだけ。もう、なにもかも忘れて、ただひたすらに神に祈った。
「ああー、神様・・。助けて――」
もう、祈る以外に方法がない。この治療のことは、日本にも伝えてある。母からも叔母からも毎晩電話がかかってくる。
そして――
 ついに運命のときがきた。今日は妊娠を確認する日。目眩がするほどの緊張。まず尿検査。なんと陽性反応。妊娠の可能性が高い。続いて精密検査。その結果――。
「リョウコサーン、オメデトウ」
と、フイッシャー博士。満面に笑みを湛え、両手を広げて涼子を抱きかかえた。その瞬間、「ほ、ほんとですか?」と、涼子が言って、その後は絶句。そして、涙、涙、涙。瞳が大きく見開かれ、瞬きすら忘れている。あまりのうれしさに声もでない。早速、夫のもとへ。
「あなた! 赤ちゃんが、赤ちゃんが!」
といったまま、健介にしがみついて号泣。勿論健介になんの反応もない。しかし、涼子は健介の耳元で、
「あなた、赤ちゃんができたのよ! あなたの赤ちゃんが」
と、何度も何度も呼びかけた。だが、彼は昏々と眠り続けている。しかし、涼子の悲痛の叫びは、彼の脳にも届いているはず。恐らく、脳の内部で、
「よかった、よかった」と、もろ手をあげて飛び跳ねて喜んでいるに違いない。
「神様、ありがとう」
涼子は思わず手を合わせた。
 涼子には、以前に流産した経験がある。そこで、今度は慎重に対応した。その後一ヶ月ほどアメリカに滞在し、日本に帰国した。そして、かつてお世話になった鳥取の聖キリスト総合病院へ。今度は医師の管理のもとで、万全を期した。赤ちゃんは順調に育っている。二十週目を超えるあたりから、涼子のお腹が目立ち始めた。胎教のことも考えて、よく胎児に向かって、クラシック音楽を聴かせたり、童話を読んでやったりと余念がない。その度に、喜んでいるのか、お腹の中で赤ちゃんが両手、両足を突っ張ってその存在を主張する。すでに男の子であることも判明している。できれば、ここに共に喜んでくれる夫がいたなら――。でも、それは無理。だが、彼は涼子の心の中で息づいている。それだけで、十分。彼も頑張った。一時は生死の境をさまよった彼だが、奇跡的に一命を取り留めた。だが、まだ昏睡状態は続いている。
 吉川の話によると、ときどき顔を顰(しか)めるときがあるという。涼子もこんな状態でなければ、再度渡米してついていてやりたい。しかし、今は元気な赤ちゃんを産むのが自分の務め。叔母も神経質なほどに細かいところまで気を使い、懸命に涼子をサポートしてくれている。麗華も三ヶ月ほど看病して帰国した。恵子も二ヶ月ほどいて、単身南米に向かって飛び立って行った。今は誰もいない。すべて、あちらの支社の方々に委ねている。
 その彼が帰国することになった。勿論病状が回復したわけではない。だが、これ以上、あちらにいても支社の方々に迷惑をかけるだけ。それなら、いっそ日本の病院で、となったのである。もちろん、涼子もそれを望んでいた。まさに“渡りに船”だった。
 ついに涼子が臨月を迎えた。母も叔母も、すでに準備万端整っている。いつ生まれてきても大丈夫。母も叔母の家に滞在して、その時を待っている。
そして、陣痛が――。
叔父の運転で病院に急行。病院側も準備OK.早速ストレッチャ―に移され、分娩室へ。待つこと一時間。ついに分娩室から、
「オギャーッ!」
元気な赤ちゃんの声。
「やったー!」
ベッドを取り囲む看護師たちが、突然、
ハッピバースデイ、トウ、ユウ。
と、腕を組んで大合唱。そうこうするうちに、年配の看護師に抱かれた赤ちゃんが、バスタオルに包まれて涼子の隣に――。
初めてみるわが子。丸々と太った元気な男の子。体重は三千四百グラム。ぱっちりと開いた目が、夫にそっくり。涼子の目じりから、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。涼子は、赤ちゃんの紅葉のような小さな手をそっと握って自分の頬に押し当てた。暖かかった。スベスベしていた。その小さな手が、涼子の指をギューっと握り返した。涼子はそっと呟いた。
「あなた。はやく目を覚ましてちょうだい。そして、あなたの赤ちゃんを見てやって。こんなに元気な赤ちゃんよ。ほら、見て。目のあたりが、あなたにそっくり。きっと美男子になるわ」。
この声が、テレパシーとなって、彼の耳に聞こえているに違いない。
「あなた。前に言っていたわよねえ。『ぼくたちの赤ちゃんが生まれてきたら、“生まれてくれて、ありがとう”って、言おうね』って」
涼子は幸福感に打ち震えた。
「さ、あなた。一緒に言いましょう」
涼子はそっと赤ちゃんの耳元に唇を近づけて囁いた。すると、それをまるで理解したかのように、赤ちゃんがニコッと微笑んだ。涼子は大粒の涙をポロオロと零しながら、そのまま赤ちゃんの顔をジーッと見つめていた。いつしか、赤ちゃんの顔が、あの夢枕に立った女神に重ね合わされ、思わず、
「神様、ありがとう!」
と呟いた。そして、先ほどから我が指をギューっと握り締めている赤ちゃんの手を、口に含んだ。ああ、なんとその甘いこと。途端に、ドッと新たな涙が溢れ出し、脳幹がジーンと痺れるような強烈な陶酔感に襲われた。