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「百年後…」
「百年後だよ」
泡がぶつぶつ盛り上がってくるかのように声が耳元で繰り返す。いや声じゃない。声じゃないけれどやっぱり声か? 誰かの声だ? それも一人じゃない、沢山の人の声だ。沢山の声がするのに、たった一つの、
「百年後にね」
透き通る声。聞いたこともない声。魅力的な魂の声、その声だけがたくさんのざわめきの声の中で一つだけ際だって目立っていた。誰もが一瞬にして自分の声を引っ込めて、その声に聞き入りその声の主に魅入られてしまっていた。
その声が去るとまたしても大勢の声が戻ってきた。
「百年後よ」
「きっとだよ」
「みんな会えるかなあ…」
「百年後かあ…生きてるかなあ」
またしても熱い粟粒が盛り上がってきた。夢でも見ているのだろうか?夢なら早く醒めないと!ああ、でも目が開かない、見えない、何も見えない! それに呼吸が上手くできない。息が苦しくて上手く呼吸が出来ない。呼吸しようとすると、気味の悪い粟粒みたいなものがごぼごぼと胸までせり上がってくるような不快感がこみ上げてくる。苦しくてもがきまくっていても、確かに生きているには違いないのかもしれない。多分生き返ったらこんな気持ちかも知れない。もしかしたら、誰も自分に気がついていないのかもしれない。自分は今どこにいるのだろう?深い海の底?積み上げられた土の中?
それとも恐ろしいことに棺桶の中?それとも誰も知らないような宇宙? 地獄? 天国? 何でも良い、今のこの状態を何とかしないと苦しくてたまらない。またしてもゴボゴボゴボと粟粒がせり上がってくる。
「百年後…」
佐伯秀毅は、声に出してみる。声は出ない。ギイギイと機械が壊れたような気味の悪い音が、自分の体の中から出ていくようで、さらに吐き気がこみ上げてきた。夢を見ているんだ。そう思いながら夢かなあとも思う。何とも奇妙な感覚だった。もうすっかり忘れていたものが徐々に戻ってくるときのあの何ともいえない不安に満ち満ちた感覚。ああまたしても奇妙な音が聞こえてきそうだった。ぶつぶつぶつと泡が胸を押し上げて迫ってきた。はき出さないと息が出来なかった。胸につかえているもの全てを吐き出さないと苦しくてたまらなかった。吐いてしまうな、と思うまもなくゲボゲボと何かが体外に吐き出されてきた。
「ゲエゲエ! 苦しい!」
そんな声など出そうになかった。いや確かにそう声を出したのに、声などどこからも出ていなかった。やっぱりギイギイとどこから噴き出すものか分からないが、体中がきしむような不安でもどかしい何とも言えない気持ちだった。ただ、もどかしさにどうしていいのかわからなかった。何がしたいのか?何をすればいいのか?何も分からなかった。ただ、苦しくて息が出来ず、もがくばかりだった。何とも奇妙な不安と恐れそして訳の分からない味わったことがないような奇妙な違和感。誰か助けてくれ! 誰か僕を今すぐここから救い出してくれ。ああ、恐い!気味が悪い! 恐ろしい! そうだそんなときは一番頼りになる
「母ちゃん」
そうだ!何でも解決してくれる母ちゃんがいた。
「母ちゃん! かあちゃん!」
ゲボゲボと粟粒のようにこみ上げてくる何か得体の知れないものを口から吐き出しなが
ら、声を絞り出してみる。
「かあちゃん!」
「かあちゃん! 助けて!」
ああ、くそっ! やっぱり声は出ない。こんなに必死に声を出しているのに、声にはならないのだ
「かあちゃん!」
「母ちゃん! 何か言ってくれよ!」
何で声が出ないんだ。何で何も見えないんだ。何で何もかも真っ暗なんだ! なんで?
僕は一体何をして居るんだろう!
「かあちゃん! もう許してよ!」
なにやら周りで大きな声がする。声じゃない大騒ぎの時のあのざわめきだ。ざわざわの声は、あの、
「百年後?」
「何になりたい?」
どこかで聞いた忘れられないあの声ではなかった。聞いたことがない初めて聞く声。ギシギシと機械がかみ合わないような不快感を表す声。
「気がついたのか」
「まさか!」
「奇跡だ」
「あり得ないことが起きた」
「不思議だ!」
「なんてことだ!」
聞き取れる言葉が、耳に入ってくる。何だろう?みんな誰のことをいっているのだろうか?誰でも良い。僕の母ちゃんがここにいてくれたら全部が解決するし、安心できるんだから。
「かあちゃん! かあちゃん! かあちゃん」
声の限りに出してみた。声を出すってことがこんなに辛いものだとは思わなかった。声なんていつだって簡単に出せるものだと思っていたからだ。でも出しても出しても、声としてはき出せなかったものが出た。声だ。ああ、やっと声が出た。確かに自分にも相手にも届いた声が。それにしてもなんて声だろう?とても自分の声なんて思えない、聞いたこともない他人の声。恐ろしくしわがれた年老いた声。そんなものが自分の喉から絞り出されたことにもの凄いショックをうけた。でも確かに声だし。間違いなく自分の喉から出て、確かに自分の耳に届いたのだから。仮にまるで自分じゃない他人の声のようであっても
「かあちゃん!」
もう一度出してみる。ああよかった。間違いなかった。自分の口から出た声だった。声というより音と行った方がふさわしいかもしれない。でもいい、何回でも言ってやるさ。
「かあちゃん」
「かあちゃん」
出た。かろうじて吐き出されたのはやっぱり一番頼りになるかあちゃんだ。何でいつも居た母ちゃんが居ないのだ。いやいや居るはずだ。声が。ぼくはぐるりと見渡す。見えた! 人だ。人の顔が、それも驚きに満ち満ちた、中には恐怖の顔が。目の前に迫ってきた。見たことがない顔ばかりだった。
母ちゃんが居ないのだったら、父ちゃんが居るはずだ。ぐるりと見渡したがそんな顔はなかった。残念ながら一人っ子だったので兄弟は見あたらない。でも誰か居るはずじゃないのか。もう一度じっくり念を入れて見渡してみる。親戚のおじさんやおばさんが居たはずじゃなかったのか?覗き込む顔顔の中にはやっぱり見知った顔は一つもなかった。
「かあちゃん!」
やっぱり一番に呼ぶ名前は母ちゃんだ。何で母ちゃんが居ないんだ
「父ちゃん」
父ちゃんも居ない。それじゃあ親戚のおじさんおばちゃんだ。近所の人でもいい。友達でもいい。ともちゃん、健ちゃん、あっちゃん、勇気、智久、倫ちゃん、幸子、敦、加奈子なんでもいい。誰か答えてくれ、教えてくれ!
「先生早く!」
誰かの声がする
どうぞお楽しみに
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