本文へジャンプ謎のルージュ           Frank Yoshida

小説の説明ページです。面白いですから是非、ご覧ください。

見てね〜 http://frankyoshida.com/literature/index.html

    「謎のルージュ」
        Frank(フランク) Yoshida(ヨシダ)


プロローグ

 床に落ちたメモ用紙が、黒のパンプスの下に、忽然と消えた。
 高井尚美は、踵の痛みを訴える仕草をして、すぐさま紙片を拾い上げた。
 高層ビルの裏通りに面した、寂寞(せきばく)とした空気が漂ったファミリーレストラン。尚美はコーヒーを啜りながら、ベルベストのネイビーストライプスーツを着た男の、次の言葉を待っている。
一九七九年十一月六日、火曜日。
柱時計は夜十時を指した。
「淡路島一泊は、どうだ」
淫靡(いんび)な電流が流れたのを受けて、尚美は「淡路島?」と呟き、片眉を上げた。
「今度の金曜だよ。――六時半、この裏手の駐車場の前で待っている」
 烏の重い声が、尚美の鼓膜を舐めた。宙を彷徨っていた視線が、ふっと止まる。
 男は烏(からす)譲二(じょうじ)、三十二歳。私大の外国語学部のスペイン語学科を卒業後、大阪市中央区の堺筋本町にある中堅総合商社、総大物産に入社。昨年の四月、輸出部中南米課の課長職に就いた烏は、今年で入社十年目になる。背広の左襟のフラワーホールには、総大物産のイニシャル《S》を模った社章が光っている。彫りの深い顔つき、身長一メートル七十八センチの体躯、そしてスキのないスーツの着こなしを見れば、誰一人として、烏が国際舞台で活躍する商社マンであることを疑う者はいないだろう。
 ショートヘアの高井尚美は、烏と同じ会社の船積課に勤務している。短大の英文科を卒業後、総大物産に入社、今年で八年目になる。美人とは言えないが、時おり覗く乱杭歯が尚美の茶目っ気を演出し、男性社員の間では“話のしやすい女性”で通っている。
総大物産の年商は八十五億円。従業員は七十名。家電製品の輸出が売上の八割を占め、残りの二割はブラジルから輸入した建築用石材の国内販売による。輸出部は仕向地ごとに欧米課、中南米課、中近東課、アフリカ課、アジア・オセアニア課に分かれ、セクションごとに五、六名の営業スタッフがいる。海外の船積業務を担当する船積課は、輸出部・輸入部両事業部の管轄下にある。
「欧州向けのシップメント(船積み)は、もう一段落しただろう。君は五時半に退勤して、いつもの喫茶店でパフェでも食べて、時間をつぶしておいてくれ」
烏は無造作に、右手でコーヒーカップを回し始めた。
「しょっちゅう行けば、気付かれるじゃない」尚美は険のある顔をした。
烏の一方通行の性格は、いつも二人の口喧嘩の原因になっていたが、烏のこうしたきかん坊的なところが、尚美には魅力でもあった。
 尚美は、先程拾ったメモ用紙をハンカチに包み、両手でしっかりと握り締めている。
 メモ用紙には、“休暇前に手渡す”と書かれた文字が。
不安と仄かな期待が入り混じった尚美は、十秒の沈黙を十分のように感じたのか、反応のない烏に「奥さんにバレても、知らないわよ!」と言い放った。
肌寒く感じるファミリーレストランに、尚美の鼻にかかった声が微妙に響き渡った。
店内の蛍光灯が、ポツポツと消えていく。
ガムテープを貼ったウィンドウ、腑抜けたバナー、整頓されていないチェア……。時間的には「看板です」が相応しいだろうが、「廃業です」と言った方がずっと自然な感じがするレストランである。
「こんな数字、誰も読めないよ!」剣呑な表情の女店長が罵倒した。
「すみません」
 新人のバイトだろうか。まるで米搗きバッタのように頭を下げまくっている。
「女の子だったら、もっと綺麗な字が書けるでしょ、もう!」
 烏は上司の性別は気にしないが、なまなかな上司には従わない。足元にも寄り付けぬほどの光芒を放った上司でなければ尊敬はしない。
「週末の話、どうするの?」尚美の甘えた声が、烏の耳朶(じだ)に触れる。
店内が暗くなって、唯一明かりが点いている二人のテーブルが、まるで鄙(ひな)びた劇場のステージのように映る。
あと三日で週末を迎える。ランデブーを待ちきれないのは烏ではなく、尚美の方かもしれない。
「明日は朝から、MDBへ出張だったわね」
 MDBは、東京に本社のある大手家電メーカーである。烏が課長を務める輸出部中南米課は、MDBのテレビキットを南米のコロンビア向けに、毎月のようにコンテナ単位で輸出している。明日はSKD(半製品組立て)輸出仕様の打ち合わせの日だ。
「最近は忙しいから、週末も“東京出張”ということで、女房も納得するだろう」
 日頃から悪知恵の働く烏には、週末の淡路島での、尚美との密会には大した裏工作は必要なかった。女房への言い訳なら、百でも千でも言えてしまう烏である。
「お客様、申し訳ありませんが、そろそろ閉店です」先ほどのガミガミ店員が、憮然とした表情で言った。
 烏は時計に目を落とし、頷いた。
店員の細い背中がレジに向かう。俄、烏は何の逡巡もなく尚美の身体を強く抱き寄せ、分厚い唇を尚美の尖った口元に重ね合わせた。
 心の裡に収まっていた尚美の記憶の引き出しが、スッと開いた。


どうぞお楽しみに