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ご注文




第一部

T発端

1972年11月13日。ドラギンじいさんは11月の夜の山道を一人で歩いていた。
勿論、街灯の一つもない懐中電灯だけが頼りの道だ。その日は風が身を切るように寒い夜だった。
じいさんの家は、村の上の方に位置していた。だから狭いあぜ道を利用して近道をしていたんだ。
息の凍る夜気の中を、家に向かって急いでいた。
このじいさんの本名はジェロラモ・カノッビオ、72歳。
吹きさらしの風は、容赦なくじいさんの体を舐めて行く。体に巻きつけた服は古く、暖かさを保つのは難しかった。
道の傾斜はますます傾いていく。
ぶどう酒の匂いがする息を弾ませて、じいさんはひたすら家へと向かう。
このじいさん、若い頃は、村の娘たちを竜の勢いでなぎたおしたって話だよ。
その名残はまだ、村で通るあだ名として残っていて、”ドラギン”と呼ばれていたわけだ。ドラゴンより小さい、ドラギン。小さな竜。
なるほど、まっすぐにこっちを見た顔は整って、目は輝き、なかなかハンサムなじいさんである。

この日、ドラギンじいさんが帰りを急いでいたのは、別に友人と話し込んで、思わず遅くなったわけでもなく、ただの帰巣本能のなせる技だ。
この時間に帰るのは、毎日の日課だった。
毎日、村にある酒場まで下りて、そこで暗くなるまで時間を過ごすのだ。彼は独り者だった。それだけではなく、彼は昔の貧しい村人そのままの生活をしていた。
家? はっきりそう呼べるものはなかったよ。
彼の寝床は、石を積んだだけのものだった。
それは岩肌を利用して屋根を葺いただけの馬小屋のようなもので床も地面を踏み固めたそのままの土間だ。そんなところに、暖炉も、電気製品も、何もない。テーブルと椅子。そしてぼろぼろのベッド…彼はそんな場所に、一人でひっそりと住んでいたのだ。ドラギン。小さな竜。
 いくら貧しいといっても、70年代にもなれば、貧しさにも限度が出てくる。中世じゃないんだぜ。1900と72年なんだからな。一応の基準ができ、社会保障、社会保険などのシステムも軌道に乗っていそうなもんじゃないか。
ではなぜこのじいさんは、そんなに貧しい生活を送っていたのか?
彼は、もちろん国から年金をもらって生活していたわけだが、イタリアのインフレーションに追いつかなかったんだ。
ここのインフレは、10年で2倍くらいに物価を上げてしまう。中でもリラからユーロになったときには、1、2ヶ月のうちに2倍になった。ま、これは例外としても、だ。
考えてみてくれよ。10年で2倍になったら、20年では2倍ではなく、元の4倍になったことになる。30年では8倍だ。
ところが、金額の定まった年金は、10年で2倍になったりはしないんだ。
それで国からの年金だけに頼って生活しなくてはならんじいさん、ばあさんは、悲惨なことになったりしているんだ。長生きすればするほど、自分の年金の価値が落下していく。
生活はますます厳しく締め付けられていく。
 私自身も、朝市が終わった後、捨てられた果物や野菜を探して、ゴミ箱をあさるじいさんばあさんたちをよく見かける。普通の人のようなんだよ。どう見てもホームレスじゃない。
だが、金をねだる勇気のない自尊心を持った人たちは? 彼らはただ忍耐するのみだ。
 ドラギンじいさんもそうだった。いつも金がなくて、かつかつであったはずだ。
じいさん、それでも酒好きで、毎日、村の酒場に行ってはぶどう酒の前で仲間としゃべり合うのが楽しみだった。
その夜――
いつものようにぶどう酒を飲んで、酒場を後にする。そして同じ道を歩いていたんだ。
村からはすぐに出てしまった。あとは、山道をたどるだけだ。暗くとも、毎日通いなれたじいさん、困るわけはない。
枯れた草を踏み分けて歩く。夜の露にしけり始めたようだ。その歩調に合わせて、懐中電灯のライトがゆれて道をまるで振子のように照らしていく。
その時、じいさんはふと、何かの動く音を聞いた。
風の音ではない。それはまるで足音だった…。
このドラギンじいさんの死体は、その夜のうちに発見されたよ。
道の近くを通ったタクシーの運転手が、倒れているじいさんに気がついたんだ。
運転手は村に駆け下りて応援を呼んだ。
そうしてじいさんをジェノバの病院に運ぶ手はずが整えられる。
この村には、なんと、この時代に救急車が存在したのだ。
手はずを整え、救急車を運転する人間を探す。
これもやっぱり村の人間だ。タクシーの運転手がドラギンじいさんをタクシーに乗せてぶっ飛ばしていかなかったのを見ても、この時、ドラギンじいさんはすでに死亡してしまっていたのが分かる。
救急車の運転を最初に頼まれた者は、寝るから嫌だ、とか何とか言って断ったらしい。
やっと運ばれて、後の検視で判明したことは、ドラギンじいさんは、後頭部を鈍器で殴られたのが死因だということだった。殺人事件だった。
ところがね。
捜査が開始され、分かったんだが、このドラギンじいさん、驚いたことに、この約一年まえ、すでに何者かに襲撃されていたんだと。
71年、あの家で頭をひどく殴られたんだ。
この時は、ひどい怪我だったのだが死ななかった。じいさんはすでに71歳だったことになる。
この襲撃の犯人は捕まらなかった。じいさんは、襲撃者を見ていないと証言しているし。
この襲撃について、その時の記事はだいたい一致した動機を出していたよ。ぶどう酒が原因だ、とな。
ドラギンは酒好き、話し好きだった。ぶどう酒のコップを前にすると、それがますます饒舌になっていったという。そのじいさんのしゃべりが過ぎたのだ、と。
この推測が当たっているかどうかは分からない。推測とはそうしたものだろう。
しかし、私は、このじいさん、心から淋しかったんだろうと想像する。
じいさんのような一人暮らしの老人が、夜などどこに行ける? 酒場で仲間と一杯呑んで騒がなければ? 彼は毎夜酒場に通った。
 そして襲撃を受けた。殺されることになる72年の、ちょうど一年前のまた11月のことだった。
 この夜、いつもの酒場から家に帰ると、中には誰かが潜んでいた。頭部をひどく殴りつけ、倒れたじいさんを死んだものと思い、暴徒は引き上げた。
 しかし、この時は、かぶっていた帽子が救いになって、死ななかったんだ。
じいさん、助けを求めて家を出て、それがまたすぐ近くの家には行かずに、少し離れた家に向かっている。この行動の意味は、深く考えるべきだろうか? それとも、ただ隣の者とは仲が悪かっただけだろうか。
助けを求められた家の女の人はまた、後のインタビューで記者に語っている。
「何があったかは、あの人、言わなかった。そして私も聞かなかった」
記者は、これをリグーリア地方の閉鎖的過ぎる態度、と書いているが、それは皮肉じゃないか。
確かに、リグーリアの人々、リグレと呼ばれるジェノバ地方の人間を、他の地方の人間は(けちだと称しない時は)”渋顔”と呼び、木で鼻をくくった態度で人に接するのが特徴だとする。こんな小意地の悪いあだ名は、ジェノバ地方の人間の態度に限ったものではなく、どの地方についても言うことで、ベルガモの地方は”マヌケ”だし、トリノの地方、ピエモンテの連中を”偽善的親切な人間”だ、と言うのと同じぐらいの真剣さだ。京都の着倒れ大阪の食い倒れに相当するかな?
 しかし、血まみれの隣人が、夜中に転がり込んで、何も訊ねないのを、”閉鎖的”と称するものだろうか?
 この時、ドラギンじいさんは、ジェノバの病院に3ヶ月入院している。そして、退院した後に自分の家に戻っているのだ。
そこに帰れば、いずれ殺されるのは、分かっていたのかもしれない。自分を襲った者を、見なかったというのは、本当なのか? 家の中にまで来て襲っているのに、本人に心当たりがなかったのか。あそこはもう危ないと、思わなかったのだろうか? 勿論、他に行くところも助けてくれる親戚もいなかったのだろうよ。歳もとっていて、あの村の家以外に、帰るところを考えもつかなかったのだろう。
そして彼は戻っていった。