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ご注文

 

著 伊藤 晴美

絵描きさんが来る前から、月ヶ丘の家の周りに灰色のもしゃもしゃとした毛の猫が住み着いていたのですが、ある日僕は、絵描きさんがその猫をグレイ≠ニ呼び、餌をあげているのを見たのです。
動物好きのハナは何度も頷いて、
「絵描きさん、優しい人なんだわ」
と、言いました。
絵描きさんが丘の家に慣れてくると、僕たちとの距離も縮まっていくような気がしました。
ひとしきり絵描きさんの話題で盛り上がった後、僕らは幼かった頃のように春の日差しの中で草の匂いを味わいました。
僕は陽だまりの中に群れているてんとう虫を見つけ、その中の一匹を掌に乗せて飛び立つのを見守りました。
手ごろな木によじ登り枝にまたがって紙飛行機を飛ばすと、僕自身が青い空のずっと上のほうまで飛んでいくような気がしました。
木の根元から僕を見上げて、
「そこから何が見えるの?」
とハナが訊くから、僕は知っている言葉を全部集めて、空の色や、遠くにきらめく街の様子を話して聞かせました。
でも僕が知っている言葉は少なすぎて、雲が流れていく様子さえうまく伝えられないのでした。
やがて、しゃべり疲れた僕に代わってハナのおしゃべりが始まります。
ハナはあちらこちらに話題を変えながら、絶え間なくしゃべり続けるので、僕は何の話を聞いていたのかすぐにわからなくなってしまうのです。
おまけにハナの歌うような声を聞いていると、眠くなってくるのです。
相槌を打たないとハナが怒るので、適当に声を出しながら木の根元にもたれていると、不意にハナの声が途切れました。
重くなっていた瞼を無理やりにこじ開けると、ハナは細長い人の影の中で正面を向いたまま凍りついていました。
ハナの前に絵描きさんが立っていたのです。
僕は寝ぼけた声でこんにちは≠ニ言いました。
「君たちはずいぶん仲がいいんだね。いつも手をつないでいるね」
と、からかうように絵描きさんが言いました。
最初に会った日、振り返りもしないで駆けて戻ってきた時、僕らは手をつないでいました。
絵描きさんの家の前を、気付かれないようにと、そっと通り過ぎてくる時も、月ヶ丘に来る時はいつも………
「ハナは目が見えないから、外を歩くときは手をつなぐんです」
と、少し強い口調で僕が言うと、絵描きさんの骨ばったからだは不自然にぴくりと動きました。
そしてとても困った顔をしたのです。
勘の鋭いハナは慌てて言い訳をするみたいに言いました。