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ご注文

 

著  裕次郎

あれから……時だけは、確実に流れていった。
いつの間にか気が付くと夜中でもTシャツ一枚で外に出られる季節になっていた。
桜が咲いたのは覚えているが、それが何時散ったのかは記憶になかった。
二月の初めにライカに出会った。気を失った彼女を家まで運んだことの理由は今でも定かでない。ただ、あの日、あの場所で見たボロボロの格好のライカは本当に綺麗だと思った。
あの日以来ライカは、オレの家に居着いた。まるで拾ってきた子猫のように。
 初めのうちは仕事から帰ってくるとまだいるのか≠ネんて思っていたのだが、一週間も過ぎる頃には、なぜか仕事を終えて帰ってくるとライカがいるのが当然だと感じるようになっていたんだ。それほどオレたちは自然だった。初めて家でおにぎりを食べて会話をした時も、どこか昔ながらの知り合いのように自然に話せたのを覚えているよ。
 こうして目を閉じると瞼の裏にライカとのあの日々が浮かぶ。

「朝だ! ブンちゃん! 今日も元気いっぱい働いてきなさい!」
 朝はいつもライカが先に目を覚ました。家出少女のくせに、朝飯をほとんど食わなかったオレに対し毎朝、朝食の重要性をクドクドと説きながら温かい朝食を作ってくれていた。朝に味噌汁を食べる毎日なんて何年ぶりだったろうか?

「ねぇ、ブンちゃん? お肉1枚ちょうだい? 私の牛蒡、少しあげるからさ!」

 お金のなかったオレたちは、天気が良い休日にはよく川原に出掛けてホカ弁を食べた。
オレがしょうが焼き弁当でライカはとり五目弁当。毎日同じオーダー。こんな金のかからないロマンチックでも、なんでもないことでライカは幸せそうに笑ってくれた。

「キャハハハ……もうやめてよぉ! これ以上笑ったら腹筋がボディビルみたいになっちゃうって。キャハハハ……もう! だからさ―キャハハハ……」
 記憶に留めようとも思っていなかったくだらないことで大笑いする日々が、なぜか今になって思い出される。その日々が輝いていればいるほど虚しさで体がからっぽになっていく。そのときのライカの笑顔と笑い声がオレに与えた希望の量の何倍もの絶望がオレを痛めつける。

「私ね、ブンちゃんにだけは嫌われたくないな。うん、ブンちゃんに嫌われないなら世界に嫌われてもいいな、とかちょっと思っちゃった」

 そういえば、ライカと遠出したことが一度だけあった。どうしてそこに行くはめになったのかは覚えていないけど、友達から車を借りて山梨にイチゴ狩りに出掛けたんだ。コンデンスミルクの代わりにマヨネーズをつけてみたり味噌をつけてみたり、飢餓で苦しむ人たちが見たら説教されそうなことばかりをして腹抱えて大笑いして、こんな日がこの先まだあるならどんな苦しいことも乗り越えられそうだな、なんて、そんな絵空事を本気で信じそうになっていた。
 帰りの車内でライカはオレに嫌われたくない、と言って恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに下を向いて笑った。

 ねぇライカ、隠れてないで出てきてくれよ?
 ライカがいないと起きられないんだ。朝飯食う時間もないよ。だけど朝に腹減るようになっちゃっていてさ。グーって音で涙を堪えられなくなるなんてバカみたいで笑っちゃうだろ? だったら笑ってよ。オレの傍でさ。笑い声を聞かせてよ。笑顔を見せてよ。
 ライカ、どこにいるの?
 ジャングルジムの上からぐるりと世界を見た。
 ここからもライカが見えないよ。